フィリピンの歴史

歴史

フィリピンは、言語的にも、文化的にも、人種的にも非常に複雑な構成を持っています。

現在、フィリピンと呼ばれる群島に住む人々は、元を辿れば、中国南部やインドシナ半島、あるいは インドネシアなど様々な地域から、それぞれ系統の異なる民族が長い時間をかけてフィリピンに移住 してきた人々です。

さらに、スペイン、アメリカなどによる植民地支配を経て、フィリピンの文化は、 幾つもの異なる文化が重なり合ったレイヤー=層をなしています。

数万年かけてフィリピンに移住してきた祖先たち

約3万~2万5000年前に移住してきたネグリト

フィリピン諸島に最初に移住してきた最古の民族は、ネグリトと言われています。 約3万~2万5000年前にアジア南部から、マレーシアを経てフィリピンに移住して きたと考えられています。

ネグリトは、スペイン語で「小黒人」の意味で、身長 が150cm足らず、縮毛、黒色の肌を特徴とします。人種的にはネグロイドに属します。

今日、ネグリトの特徴を残す人々は、ルソン島、パラワン島、ネグロス島、 ミンダナオ島などの山岳地帯や海岸地帯で暮らしています。

アグタ族、アイタ族、アエタ族、バタック族、アティ族、ママヌワ族などで、 フィリピンに住むネグリトの総人口は約2万~3万人と推定されています。 パラワン島の洞窟からは、2万2000年前の旧石器時代の頭蓋骨が発見されています。

原始マレーの移動

次にフィリピンに移住してきたのは、原始マレーと呼ばれる人々です。

紀元前1万年から紀元前8000年にかけて、 中国南西部から、インドネシア半島を経由したり、直接、台湾やフィリピン北部に移住してきた と見られています。

人種的には古モンゴロイドに属し、直毛、褐色の肌を持っています。 焼畑農耕などを主業としていました。

現在、原始マレーの特徴を残す人々に、ルソン島に住むイロンゴット族、ミンドロ島に住む ハヌノオ・マンヤン族、ビサヤ諸島やミンダナオ島に住むブキドンノン族などがいます。

古マレーの移動

紀元前1500年~500年にかけて、フィリピンに移住してきたと見られるのが古マレーです。

人種的には、原始マレーも、古マレーもモンゴロイドに属していますが、古マレーは、 棚田水田農耕、首刈り、巨石記念物などの文化、宗教、儀礼を持つことから、文化的に 原始マレーと区別されるようです。

しかし、原始マレー、古マレーを一括して原マレーと呼ぶこともあるようです。

現在、古マレーの特徴を残す人々に、ルソン島北部の山岳地帯に暮らすイスネグ族 (アパヤオ族)、カリンガ族、ティンギャン族(イトゥネグ族)、ボントック族、 イフガオ族、カンカナイ族、イバロイ族などがいます。

古最後にやってきた新マレー

そして、最後にやってきたのが新マレーと呼ばれる人々です。 現在、低地に暮らすほとんどのフィリピン人の 直接の先祖にあたります。

イスラム化の波とスペインによる支配

イスラム王国

フィリピンに初めてイスラム教の波が訪れたのは、1380年にスルー諸島の最南端のシムヌル島に、アラブ人が上陸したことから始まるといわれています。

14世紀、マラッカ、メダン、ブルネイなどに群立したイスラム王国のもと、イスラム商人もフィリピンを往来するようになりました。

フェルディナンド・マゼラン

1521年3月、フェルディナンド・マゼラン一行がサマール島に上陸。同年4月にマクタン島でラブラプらにより殺される。

1565年、レガスピ遠征隊がセブ島を征服。

1571年、レガスピ遠征隊がマニラを陥落。マニラを首都として、レガスピが初代総督に。約300年に及ぶ植民地支配が始まる。

フィリピン独立とアメリカによる植民地化

1860年代、スペイン国内に内乱が発生。平行して、フィリピンでも知識人の間で独立への機運が高まる。

1887年、ホセ・リサールが『ノリ・メ・タンヘレ』を出版する。

1892年、フィリピン独立の精神的指導者であるホセ・リサールが帰国するが、翌年にはミンダナオ島のダピタンへと流刑される。同年8月には、フィリピンの革命と独立を目指した政治グループ「カティプナン」と、スペイン軍との最初の戦闘が起こる。フィリピン革命戦争の始まりである。

1896年、ボニファシオ武装蜂起、アギナルド武装蜂起、ホセ・リサール処刑。

1898年4月25日、キューバの領有権とフィリピンへの介入を狙うアメリカは、スペインに戦線布告。 5月1日マニラ湾でスペイン戦艦10隻を轟沈させ勝利を収める。 5月19日、アメリカの軍艦に乗ってアギナルドが香港からフィリピンに帰国。 1898年6月12日、カビテ州カウィットにあるアギナルドの生家で、アギナルドがフィリピンの独立が宣言する。 9月にブラカンのマロロスで革命議会を開催し、11月29日にマロロス憲法を採択。 その一方、マニラを占領したアメリカは、1898年12月10日にパリで開かれた講和会議で「米西戦争平和条約」、 いわゆるパリ協定によりスペインからフィリピンを2000万ドルで買い、フィリピンの統治権も獲得。

1899年1月23日にマロロス憲法が公布され、共和制(フィリピン第一次共和制)が誕生する。 1899年2月には米比戦争が勃発する。 革命政府は多数の犠牲者をだし、3月31日には議会があったマロロスは陥落。 以降、行政府はルソン各地を転々と移動するようになり、やがてはゲリラ戦へと移行する。

1900年1月、第一次共和制初代マビニ首相が、アメリカ軍によってグアムに流刑される。

1901年、ギナルド大統領もイサベラ州でアメリカ軍に拘束され、アメリカへの忠誠を誓い、 「フィリピンにおける米国主権」を承認。

1902年に、ルーズヴェルト大統領が、フィリピン平定を宣言する。 依然、各地でゲリラ戦は継続されていたものの、アメリカが掲げる「友愛的同化」の名のもと、 アメリカの植民地支配がスタートする。

1901年、タフトが初代の民政総督が任命され、アメリカは民政の形でフィリピンを統合していく形を取る。

1902年、ルーズベルト大統領がフィリピン平定を宣言する。

フィリピン独立への道

1907年、第一回総選挙が実施され、即時独立を求めるナショナリスタ党が勝利し、フィリピン議会が発足。フィリピンの完全な独立を求める声は高まっていく。

1912年、独立を視野に入れたフィリピン自治法・ジョーンズ法がアメリカ議会に提出される(成立は1916年)。この自治法により、フィリピンの国会はフィリピン人による二院制となり、選挙ではナショナリスタ党が大勝し、ケソンが上院議長に、オスメーニャが下院議長となる。

1933年、約10年間の準備期間を経てフィリピンの独立を認める法案が可決され、その一部が修正されてフィリピン議会も受諾する。内容は、憲法議会による憲法のもと、10年間はコモンウェルス(連邦制)を取り、1946年7月4日に共和国としてフィリピンの独立を宣言する、というもの。

1935年5月、新憲法が国民投票によって承認される。9月の大統領選挙で、マニュアル・ケソンが大統領に当選、いわゆるコモンウェルス(連邦制)がスタートする。

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